杉原千畝
杉原千畝
1900年(明治33)1月1日生まれ 1986年(昭和61)7月31日没
杉原千畝は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救ったといわれる。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上にも及ぶと言われ、世界各国で活躍している。
海外では、チウネ・センポ・スギハラ、とも呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばれた理由は主に「ちうね」という発音が難しく、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。
1939年~1940年の東ヨーロッパとユダヤ系ポーランド避難民
リトアニアにおいては、1940年7月より数多くの主としてユダヤ系ポーランド人の避難民が、日本通過ビザを得るため日本領事館へ殺到していたが、その大多数は日本政府が定めていた外国人入国令による通過ビザの発給要件を満たしていない者であった。ヨーロッパにおける戦争勃発後という切迫した状況のなか、杉原千畝は外交官としての服務規律と人命救助の間で葛藤する。しかし、最終的には人道主義・博愛精神に基づく独自の判断により、要件を満たしていない避難民に対しても、大量の日本通過ビザを発給した。日本通過ビザの発給を受けた避難民はその後、シベリア鉄道でソ連を横断し日本へ渡り、さらにアメリカ大陸や上海などへと逃避しその命が救われた。
杉原がリトアニア国のカウナスに日本領事館開設のため領事代理として赴任した1939年8月は、第二次世界大戦が勃発する直前であった。ヨーロッパにおける戦禍は、1939年9月のナチス・ドイツによるポーランド侵攻により始まり、1940年4月以降の同国によるデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスへの侵攻と広がっていき、無数の避難民が発生した。特に、ユダヤ系の人々は、1933年にドイツにおけるナチスの独裁政権の成立と同時に「ユダヤ人排斥運動」が始まって以降、後にホロコーストと称されることとなる厳しい迫害政策の対象となっていた。
とりわけポーランドにおいては、当時ヨーロッパ最大のユダヤ系社会を有していたことから、同国が1939年9月にナチス・ドイツとソ連に分割されて以降、多数のユダヤ系ポーランド人が避難民として迫害から逃れようとした。それら避難民があらゆる方面に脱出を試みるなか、一部は、ソ連支配下のポーランド領ヴィリニュスが1939年10月にリトアニアに返還されるに伴い、当時はまだ独立した中立国であったリトアニアに逃げ込むことに成功した。しかし、同国も、1940年に6月にソ連軍が進駐し、同年8月にソ連に実質的に併合されることとなり、彼らは再び逃避を余儀なくされた。
通過ビザ発給の経緯
杉原による日本通過ビザは、このような切迫した状況において大量発給されたものである。本人により晩年にまとめられた手記 によると、多数の避難民が日本領事館に通過ビザを求めて殺到し始めたのは、1940年7月18日の朝である。リトアニアにおいては前日に行われた総選挙により親ソ政権が樹立しており、同国はソ連の完全な支配下におかれるとの認識が広まっていた。また、当時は上述のとおりナチス・ドイツにより西および北ヨーロッパが制圧されていたことなどにより、避難民にとりヨーロッパからの脱出ルートとしては、東のソ連・シベリア経由で日本に渡り、さらに第三国を目指すルートしか実質的に残されていない極めて追い詰められた状況であった。さらに、在リトアニアの各国公館はソ連から8月末日までの閉鎖を要請されており、当時の実質的な首都であったカウナスにおいて続々と閉館されている状況であり、避難民にとっては国外脱出のための必須条件であるビザ取得が日々困難になっていく状態であった。
当時の日本における外国人入国令によると、日本通過ビザの発給には、パスポートの所持、行先国の入国許可と十分な旅費の所持がその主たる発給要件であり、通常であれば在外公館の判断で可能であった。しかし、上述の手記によると、日本領事館に殺到していた避難民はいずれの要件も充たしていない者が多く、また、その数が極めて多数であったため、避難民からの要請を受けて直ちに、外務本省に対し2度に渡り、通過ビザ発給の可否についての請訓電報を送っている。その内容は、人道上どうしても拒否できないことを記したうえで、形式要件に拘泥せず領事の裁量によって通過ビザを発給する許可を求めたものであるが、それらは本省により否決されたとのことである。
このような状況のなか、杉原は組織人としての服務規律と人命救助の間で煩悶することになり、その思いを手記の中で下記のように記している。
自筆「手記」決断
「最初の回訓を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。
回訓を、文字どおり民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対し従順であるとして、ほめられこそすれ、と考えた。
仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。
それよりも何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。
私も何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。
(中略)
苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。
そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している。」
第二次世界大戦という人類史上類を見ない暗黒の時代に、組織人としての服務規律と人命救助の間で葛藤しながらも、最終的には個人としての良心を保ち行動し得た外交官杉原。今なお世界各地で偏見や人種差別に基づく戦争が絶えない状況に鑑みると、その行いや背景となる思いは、人類が未来永劫にわたって希求すべき人種・民族を超えた人道主義・博愛精神の稀有かつ勇気ある表出例として、世界が共有し次世代に語り継ぐべき真正無二の行いである。
ビザ発給後の杉原千畝
1947年、杉原は家族を連れて日本に引きあげてくるが、帰国した彼を待っていたのは、独断でビザを発給したことの責任による外務省からの辞職勧告であった。
杉原千畝自筆手記によれば、「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和三二年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります。」とある。
その後の杉原は、商社等の現地駐在員として日々を送り、ビザのことは自ら語ることはなかった。しかし、1968年8月、突然に杉原へ一人のユダヤ人から連絡があった。杉原と会ったイスラエル大使館のニシュリ参事官は、ボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原に感謝の言葉をのべた。「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」世界中のユダヤ人たちは、杉原のことを探し続けていたのであった。翌年、彼らを救った功績から、ビザの受給者でもあるバルハフティク・イスラエル宗教大臣と面会する。さらに、1974年に「イスラエル建国の恩人」として表彰される。1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞した。
2000年10月10日、日本国政府による公式な杉原の名誉回復が行われた。
杉原千畝名誉回復の経緯
杉原千畝顕彰プレート
1991年10月、当時の鈴木宗男政務次官により外務省飯倉公館で幸子夫人、長男夫婦に杉原への名誉回復が行われた。
1992年3月11日、第123回国会衆議院の予算委員会国会における質疑答弁
質問:草川昭三
答弁:内閣総理大臣 宮沢喜一
外務大臣 渡辺美智雄
≪草川昭三≫
終戦後ソ連での抑留から帰国されました杉原氏は、外務省に復職を願いますけれども、昭和22年の人員整理ということで退官を強いられました。独断によるビザ発給は本国政府の訓令違反とされたと言えます。杉原氏本人も家族も、本省の意向に反してビザを発給した責任を問われたとの思いを抱き続け、44年間外務省関係との交流を一切絶っていらっしゃいました。
昨年の10月、鈴木宗男外務政務次官がリトアニアとの外交関係樹立を機会にこの問題を取り上げられ、飯倉公館でご家族に謝罪されたと聞いております。
(中略)
この際、外務省は正式に謝罪をし、この方を顕彰すべきだと思うんですが、大臣の見解を聞きたいと思います。
≪渡辺美智男外務大臣≫
これは昔の古い話なので記録以外には調べようがないんですが、杉原さんが訓令違反で処分されたという記録はどこにもない。それからそういうような査証を発行したのは15年ですが、その後でプラハの総領事館あるいはケーニヒスベルクの領事館、ルーマニア公使館などを7年間勤務してきた。
だから7年間外務省にずっとおるわけですから、処分されたわけではないし、22年には約3分の1、外務省の人間の3分の1が解雇されたそうです。終戦直後の話ですから、その3分の1の中に入ったということは事実でございますが、特に不名誉な話ということは私は全く聞いておりません。
中略
私は、その事態をよく見て人道的な見地からそれだけのご苦労をして出国させたということは、やはりすばらしかったなと、過去を振り返ってそのようなたたえたい気持ちであります。
≪宮沢喜一内閣総理大臣≫
私も報告を受けておるところによりますと、杉原副領事の行った判断と行為は、当時のナチスによるユダヤ人の迫害といういわば極限的な局面において人道的かつ勇気あるものであったというふうに考えております。この機会に改めてその判断と功績をたたえたいと思います。
2000年10月10日、日本国政府による公式な杉原の名誉回復
「勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃えて」と、顕彰プレートが外交史料館に設置される。除幕式で当時の河野洋平外相は、戦後の外務省の非礼を認め、正式に遺族に謝罪した。
「杉原千畝氏 顕彰プレート除幕式」における河野外務大臣挨拶
本日御列席をいただきました杉原幸子令夫人、そして杉原家の皆様、今日の日を迎えるに当たって大変御尽力いただきました岐阜県及び八百津町の方々、それからリトアニア及びイスラエルの在京臨時代理大使、杉原千畝生誕100年記念事業委員会の皆様方、その他御列席の方々、皆様をお招きして本日ここに故杉原千畝氏の偉業を称える顕彰プレートの除幕式を開催できたことは、私にとりまして、大きな喜びでございます。
特に、故杉原氏と一緒に言葉には言い表せない御苦労をされました幸子夫人に御臨席を頂けたことは、本当に嬉しいことでございます。望むらくは、故杉原氏が御存命中にこのような式典ができておれば更に良かったと、こんなふうに思っています。これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。
勇気ある人道的行為を行った外交官として知られる故杉原氏は、申し上げるまでもなく、在カウナス領事館に副領事として勤務されている間、ナチスによる迫害を逃れてきたユダヤ系避難民に対して日本通過のための査証を発給することで、多くのユダヤ系避難民の命を救い、現在に至るまで、国境、民族を越えて広く尊敬を集めておられます。
日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。
本年は故杉原氏の生誕100周年に当たりますが、杉原氏が御活躍されたリトアニアと我が国との間の新たな外交関係が9年前に始まった今日、すなわち10月10日という機会に、外務省としても、同氏の業績を改めて称え、日本外交の足跡として後世に伝えるために、顕彰のプレートを設置することとなりました。
このプレートは、8月4日、衆議院外務委員会におきまして、顕彰のために何か残るものを考えるべきだという御指摘がございました。外務省といたしまして、色々と考え、相談した結果、ここにプレートを置かせてもらうことが最も適当であろうと考えた次第でございます。このプレートを見る度に、故杉原氏のとられた人道的かつ勇気のある判断と行動について、当省職員が常にこれを心に留めて職務に努めるとともに、外交史料館に閲覧にいらっしゃる方々にも、杉原氏の人となりと業績に思いを馳せていただければと考えた次第でございます。
また、故杉原氏の偉業を記念して、何か国際社会における相互理解に役立つ事業をできないかという御提言がございました。これにつきまして検討した結果、国際交流基金事業として、イスラエルからの有識者招聘が2001年度から実施されることとなり、同氏にちなんで「杉原千畝フェローシップ」と名付けられることとなっております。
最後に故杉原氏の御冥福をお祈り申し上げ、御家族の皆様の御健康を願って、私の御挨拶とさせていただく次第でございます。有り難うございました。
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